2015/01/17

 中学校の頃の話だ。今でもハッキリと覚えている。「ブラックジャックは善人か悪人か」という議題で善人派と悪人派に分かれ、討論を行うという内容の授業だった。道徳観と意見を主張するということを養うための授業だと今なら想像できるけど、当時衝撃を隠せなかったのは、悪人派が僕しかいなかったということだ。イコールという記号の如く机は向かう合う形で並べられ、廊下側に座る善人派には見慣れた顔ぶれが見える。窓際に座った僕に味方などいなかった。まさに四面楚歌。圧倒的なプレッシャーだった。

 「ブラックジャックは人を助けています」

 そう開口したのはクラスの優等生だった。女子らしさを生活や身なりで訴えかけるような女子で僕は彼女のことが嫌いだった。すぐ反論するために挙手をする。黒板の前に立つ先生が僕を指さし、立ち上がる。

 「助けるうえでブラックジャックは法外なお金を要求します」

 予め用意していた答えだった。法外という部分を強調すると、優等生の女子は少し顔を赤くして鼻の穴を広げて挙手をした。

 「それでも人の命を助けているんだから良いと思います」
 「いやいや、法外なお金を要求されて生き地獄を味わった患者もいるかもしれません」
 「じゃあ白石くんは人の命を助けるのが悪いことだって言いたいんですか?」
 「違います」

 優等生の女子の背中を押すように、他の女子たちの野次が飛んでくる。「アンタだって死にたくないでしょうに」「お金で命は代えられないじゃん」などと暴力団の恐喝にも聞こえるような言葉が飛び交う中、先生がぱんぱんと手を叩き、その音が教室に響き渡る。生徒全員が先生の方に顔を向けた。

 「はいはい、冷静に話しあいましょう。それじゃあ白石くんは命よりもお金が大事ということですか?」

 何言ってんだこのババア、と喉のあたりまで出かけ、「違います」とかぶとを振る。「死ぬということを受け入れるのも大切だと思うんです」
 本心だった。僕がブラックジャックを読んでいて違和感を感じたことはそれだったのだ。確かにストーリーの完成度、描写などにおいて最高峰であるということは認めざるをえない。しかし法外な金額を請求するということは、貧乏で病弱な子供との格差をより生んでしまうだけではないかと考えたのだ。
 「じゃあアンタが死ねよ!!」と絹を裂くような女子の声が響くが、僕は下腹部と足の指に力を入れて冷静さを保つ。なにもこれは勝つための議論ではない。ただの授業だと自分に言い聞かせた。直後、挙手をしたのは優等生の女子だった。

 「それって助かる可能性がある人も死んだほうがいいということですか」
 「違います」
 「じゃあどういうことですか。説明して下さい」

 感情的になりながら、優等生の女子はさらに言及してくる。もうおよそ野次ともいえない言葉の暴力が僕の胸を突き刺す中で、なるべく早口にならないように、深く息を吸い込んで発言をする。

 「ブラックジャックがしていることは貧富の差を広げるだけだと思います」
 「ヒンプの差?」

 オウム返しをする優等生の女子はどこか不快げな顔を浮かべていた。

 「金が本当に無い人間が『助かりたい』と思ったときにブラックジャックは助けてくれません」
 「だからなんですか」
 「作中に出てくるのは金が払える人か、手段を選ばないで払う人ばかりです。そうしないと話が成立しないでしょうし。だからブラックジャックが現実にいた場合、払える人間は助かり、どうしても払えない崖っぷちな人は助からないという差が広がってしまうと思うので、それは差別なんじゃないかと思います」

 後半になるにつれて少しずつ早口になってしまったことを反省しながら、伝わっただろうかと不安になる。優等生の女子はばつの悪そうな顔を浮かべて、天井を刺すような勢いで挙手をする。

 「それでもブラックジャックは得たお金を自然保護に使っています」伝わっていなかったようだ。
 「自然保護に使っていても医者として間違っています」

 ここで、はっとした。そうだ。この議論のテーマが「善人か悪人か」というのは、どっちにおいてのことなのだろうと思った。医者として善人なのか、人間として善人なのか。最初に確認すればよかった、と思うと同時に唇が乾燥する。喉が乾き、胸のあたりで不安がざわざわとうめき始めた。

 「彼は人間としては間違っていません。人の命を救ってるし自然を守っているからです」

 ほら、来た。話の軸を定めないと水掛け論になってしまうではないかと僕は絶望した。さすが優等生というべきか、自分の意見が支持される方法をよく知っている。しかし、僕は挙手する。

 「ブラックジャックというストーリーは医者であり人間でもある彼の話です。そして人間的にも間違っていると思います」
 「なんでですか。理由を言ってください。あと、屁理屈はやめてください」優等生の女子はかつて見たことが無いほど早口になっていた。
 「法を破っている以上は悪人だからです」
 「無免許のことですか」食い気味に優等生の女子は問い詰めてきて、僕は首肯する。
 「はい。法を破っている以上は悪人です」
 
 ここでスイッチが入ったように周りの女子たちに熱が帯びる。「漫画に出てきた医学会と同じこと言ってんじゃん!」「白石が悪人だろ!」「法律法律って頭の中が堅いんじゃないの!?」。確かに作中でブラックジャックが無免許であるがゆえに逮捕されるシーンがあった。が、あのときブラックジャックは抵抗もしなければ弁明もしない。その理由を考えると、彼は自分で正解ではないことをしていたことを自覚していたからだと当時の僕は思っていた。だからといって間違いを犯していたとも言い切れない。正しくもなく間違ってもいない、そういう覚束ない線の上で彼は生きているのだろうと思った。

 「いや、確かに」釣られて僕は声を荒げる。「確かに法律が全部正しいわけでないとは思いますが」
 そう口にした途端、女子たちがしんと静まり返った。先生が僕の顔を見て、「白石くん続けてください」と促す。

 「……確かに法律が全部正しいわけではないとは思いますけど、今回の話を話しあう上では必要なことだと思います」
 「どういうことですか」語尾を伸ばし、挑発しているような声を委員長の横に座る女子が口にする。
 「感情で話しあったってこの話し合いは終わりませんし、それにこういう良し悪しをハッキリと判断するために法律があるんですし、それに」急に静まり返った教室の雰囲気に気圧されそうになる。静寂が頭上から落ちてきて、僕を圧迫するようだった。教室内すべての視線が僕に向いていると思うと、急に怖くなってきて、声が震える。

 「それに?」女子の誰かの声が突き刺すように僕の耳に届く。
 「それに……」

 言葉に詰まってしまった。何を言おうとしたか忘れてしまったのだ。俯き、泣きそうになってしまう。そこで先生の手を叩く音が静寂を裂き、「はい、じゃあそろそろ結論を出しましょうか」と軽快に言い放つ。嘘だろ。ここから結論を出すの?

 「先生」優等生の女子が挙手する。そして、こう続けた。







 「このままじゃ埒があかないので、多数決を取りましょう
 「そうですね。いいですね多数決



 え?




 は? ちょっと待って。ここに来て多数決? じゃあここまでの議論は何だったの? 僕は戸惑い、潤った目頭が一気に乾くのを感じた。辺りを見渡すと、もう解決でもしたかのような空気になっており、さっきの殺伐さはどこに言ってしまったのかと思ってしまう。

 「はい! じゃあブラックジャックが善人だと思う人!」

 先生がそう言うと、女子がさながら軍隊のように調子を揃えて挙手をする。全く議論に参加していなかった男子も僕に申し訳なさげな顔を向けながら、調子を合わせるようにゆっくりと挙手した。

 「はい! 多数決で決定しました! ブラックジャックは善人です!

 嘘ォ。こんな形で終わるの? 僕はぽかんとして席を立つ向かい側の善人派の人間たちを見つめていた。口々に女子が「やっぱり善人だよねー」「白石って理屈っぽいね」などと笑顔を浮かべている。感情的になる余裕さえもなかった。そのまま生徒たちは机を元の位置に戻し、給食の準備を進める。

 「先生」と僕は先生に歩み寄った。「え、結局僕が間違っていたってことですか」
 聞かずにはいられなかった。あれだけ侃々諤々な議論を行ったにも関わらず、数の圧力で僕は説き伏せられてしまったというのか。

 「給食食べよう」

 先生はそう言った。なに言ってんだこのババア。答えになっていない。結局僕は多数決という数の圧力でねじ伏せられて、納得のいかないまま議論を終えてしまったのだ。中島くんの「今日の給食はフルーツポンチがあるんだぜ」という言葉が無ければ、僕はその日ずっと絶望していたことだろう。

 「マジで!? っしゃぁ! フルーツポンチ大盛りで頼むわ!!」

 その笑顔の裏側で、僕は、一人で戦うことの恐ろしさを噛み締めていたのであった。