2015/01/25

 有識者、という言葉に疑問を覚える。物の本によるとそれは見識の高い人を指し、俗的には博識という言葉とほぼ同義に扱われるケースが多く、それがいかに偏った知識や経験の持ち主であってもそう呼ばれる事が多い。マニア的であったとしても、一つの分野に精通し他人に影響を与えうる人物であれば、人をそれを有識者と呼ぶ。もちろん従来の意味に沿っているかと言われれば、疑問は抱く。

 Twitterにて、「無職には有識者が多い」という呟きを見かけた。並べて「有識者ならば無職にならず、働けばいいのに」と言う人もいた。それに反応して、無職が肯定的な意見を述べて、政治や社会に文句を言っている。僕はそれらの言葉や光景を見て、頭上に靄を浮かべる。物事を深く見通し、本質を捉える人。職が無くとも矛盾は無い。自らの中にある有識者という言葉の不必要なレッテルが何かを邪魔しているだけかもしれないが、果たしてそれは「正しい」のだろうか。

 正しいという言葉も多種多様で、それに付属する名詞によって意味は異なる。本人にとってなのか。資本主義にとってなのか。日本にとってなのか。それとも歴史にとってなのか。膨大とも言える幅広さに曖昧さは疑問しか生まないのだろうけど、この場合は歴史的な、差し引いては人類だとか意味的に広義なものとして捉えていただければ嬉しい。


 簡単な話だ。社会に参加していない人間が、社会や社会のものに中指を立てて道理が成り立つかという事。それがアニメーションだとか漫画だとか娯楽作品であれば自由だけど、政治的な意見は政治に遠からず影響する恐れがある。Twitterなど若者を中心に人気を博しているネットサービスであれば、無知な者も少なくはない。結果的に中高生や政治に感心を持ち始めたがまだ勉強不足の若者が、誰かのただの愚痴を真に受けて、支持されることも難しい捻くれた思想を持ちあわせてしまう危険性があるのだ。
 それは政治に関しての話ではなく在日の話であったり、マスコミの話であったり、無知なのに付け焼き刃で情報を得てしまった大人たちが流す私怨にも似た大きな渦に若い世代を巻き込んでしまう可能性があるのではないか、と心配でならない。
 具体的に言えばその私怨にも似たものを見た若者が「韓国」「在日」「マスコミ」「政治」などと言った単語を見るだけで批判体勢をとってしまうような、そんな未来を容易に想像できてならない。批判は猿でも出来る。必要なのはそれらに対して自らの意見を持ち合わせ、自分はどう行動していくかということなのではないか。ただ批評的なスタンスや、アンチテーゼに満ち溢れた世情になってしまえばこれから先に何も得ることができず、最終的には疑うことも難しい当たり障りの良いぺてんに溢れた砂上の楼閣が乱立する世の中になってしまうのではないかと信じて疑わないのだ。そして楼閣は崩れ落ち、ディストピアな思考ばかりの人間だらけになってしまう。

 恐らく前述の「無職の有識者」とはそういった在日、韓国、マスコミなどといった知識に精通したものたちの事も指すのであろう。だがそれは批判に必要な武器を揃えただけの民間兵にしか過ぎなくて、何かを守るためのものではない。何かを潰すための材料に他ならない。それらだけを持ち合わせたものを一緒くたに「有識者」と述べるのは、些か危険ではないかと僕は考える。本当の有識者とは否定と肯定も出来る中庸そのものであり、多角的視点から物事を捉え、本質を見抜く人間を指すのではないかと僕は考えている。
 つまりは政治を批判するにしても批判する部位を述べ、具体的な解決策を提案する人間。むろんそれはあくまで個人的見解であり、決して他者に押し付けるものではなく、一人の意見にしか過ぎないという当たり前な前置きを述べることが出来る人間こそが有識者であり、クレバーな人間なのではないかと思えてしまうのだ。

 ゆえに「無職の有識者」は何も知らない人間を歪めてしまう恐れがあるのではないか。SNSなどといったインターネットが普及した現代だからこそ、それは懸念せざるを得ない。

 しかしだからといって、無知なのもまた話にならない。人間とは弱く賢い生き方をして食物連鎖を抜け出た狡賢い生き物なのだから、ただ批判したり攻撃をするだけならば野犬となんら変わりないことは言うまでもない。
 「何も知らないほうが幸せだ」と言う人をたまに目にするけど、僕はそう思わない。自分が生きる世界とまでは言わなくても、目が届く範囲や自分に関わるものに関して最低限の知識は持ち合わせないとその無知の人の周りにいる人間が支えなくてはならない状況になってしまうため、リスクに偏りが生じてしまうのだ。



 例えば、皆さんはアントニオ・サラザールをご存知だろうか。かつてポルトガルの首相、一時大統領だった男だ。エスタド・ノヴォ体制(教会と伝統的な身分制中間層が支配するコルポラティズモ体制の確立や無政府主義政党を禁止など)を確立し、彼を歴史的に独裁者と呼ぶ人も多い。
 私生活にも謎が多い人物で、彼を多く知る者は少ない。が、彼の晩年は「知らないほうが幸せ」という考えを持ち合わせたものたちの計らいによって安らかに生涯を遂げたものだったのだ。

 サラザールの確立したエスタド・ノヴォ体制は戦後も続き、彼は独裁的な政治を行い続け、ポルトガル軍の中で不満の声が募っていた。しかし歴史の歯車を食い止めることは難しく、首相の座から降りることも無かった。故にポルトガル内でも諍いは起こり、疑問と混乱は渦を撒いて続いたのであった。

 ある日のことである。その日、サラザールはリスボン郊外のサント・アントニオ・ダ・バッラ城砦で静養中だった。ハンモックに寝っ転がり、昼寝をしていたのである。混乱しているポルトガルの現状で心労も募り、安らかな時間を求めたのだろう。
 しかしハンモックは半回転を描き、サラザールは眠りの中に意識を失ったままハンモックから落下してしまう。運悪く頭を強打し、そのまま意識を失う。サント・アントニオ・ダ・バッラ城砦の地面は固く舗装されていた為、死亡しても不思議ではなかったのだが、サラザールは奇跡的に命を取り留めた。

 しかしサラザールは、2年もの歳月を、夢の中で過ごすことになる。

 彼が目を覚ましたのは2年後のポルトガル。政権は変わり、近代化が進み、動乱の真っ最中で彼が何か行動を起こしたところで政治的な意味を持たないほどの状況に変わっていたのだ。
 しかし彼らの側近は、彼にその事を知らせない。彼になるべく精神的なショックを与えまいと執務室を当時のまま保全し、偽物の新聞を読ませて晩年を過ごさせたのだ。
 まだ彼は自らの政権が続いていると思っているため、何の影響力の無い命令書を書いては過ごし、自らの生涯を終えたのだ。



 サラザールは何も知らなかった。しかし、知っている側近は彼を幸せに生涯を遂げるように一意専心した。これをリスクと呼ぶのも些か幼稚にも思えるが、人間が人間である以上は必ず無知のものを助けなければいけない因果に生まれていると言わざるを得ない。

 サラザールは幸せだっただろうか。政権が変わったことも知らず、偽物の新聞を読まされて自分以外の人間が真実を知っている中で没した彼の生涯は、果たして正解と言えるのだろうか。
 もしサラザールが事実を知っていれば、不幸せになっていたかもしれない。が、それが事実であることは言わずもがなである。僕はそれならば不幸せで良いのではないかと考えてしまう。なぜなら、真実を知らないことには影響力など持たないからだ。

 話を戻すと、本当の有識者であれば真実を受け入れて、正しい影響力を持つべきなのではないかと僕は考える。正しい影響力というものの正解などわかりはしないけど、それでも自分の思考と照らしあわせて正しいと思うことを人に伝える。ただの批判や攻撃ではない。自分たちがこれから生きる時間を真剣に見つめ、生産的な意見を考える力が何より必要ではないかと考えるのだ。

 それを真剣に考える無職もいるではないか、という意見もあるとは思うが、そう思うならまず働かないといけない。資本主義の日本を変えたいのならば、まずその渦の中に入り込んで戦うことが必要だと思っている。何処かで得た情報を自分の口から言うだけなんて、子供でも出来る所業。まずは自ら経験を経てそれから学び、情報と経験と知恵を足してから初めてそれを知識と呼べるのではないか。過去に働いたことがあるとしても、今も戦地で戦うものの説得力に適うわけがない。中年や高齢の無職が何かを吠えたところでも、働いた時代が違うから同様だろう。

 結論。無職に有識者がいたとしても、それは砂上の楼閣に他ならない。まず目の前のやるべきことをやらなければいかなる批判や攻撃に意味を持たないからだ(理由は前述)。何も知らないものに与えるべきは正しい情報に他ならなく、思想の植え付けなど言語道断なのである。ゆえに発信する言葉の使い方や、伝達手段には最低限の注意を払う必要があるのではないかと、僕は考えるのであった。